「おのころ神社」の道標
古事記、日本書紀によると、イザナギ・イザナミの二神が天上の「天の浮橋」に立って、「天の沼矛」で青海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった…という神話があります。そのことから、おのころ島を「おのずから凝り固まってできた島」…自凝島とも呼びます。
なので、おのころ神社も「自凝神社」。
沼島で「おのころ神社」への山道を登る途中、「自凝神社」という道標を見た瞬間、古い古い時代のヴィジョンが浮かびました。
古代ギリシャ時代の哲学問答風景。場所は現在のアテネ。
ソクラテスが、広場にたむろする若者たちを相手に問答しています。
有名な「無知の知」問答ですね。
ソクラテスの弟子がデルポイの神殿で、ソクラテス以上の賢人はいないというご神託をもらいます。
それを聞いたソクラテスは、そんなはずはない、自分は何も知らないのになぜ?…と自問の末、探求の道を歩み始めます。そして、賢人と称される人々に会いに行っては、質問を浴びせかけます。
その結果、彼が知ったことは、他の賢人とされる人が、自分の専門の技術については知っていても、それが意味するところを深く語ることができない。まして、人生を生きて行く上で一番大切な真善美や徳については何も知らない…
自分は少なくとも何も知らないということを知っている、ならば、知っていると思い込んで、無知に対して無自覚である彼らよりも自分の方が勝っていると確信する、という有名なお話です。以来、彼は若者たちを相手に、「無知の知」問答を繰り返し、彼らに生きる意味を問い続けます…
ソクラテスにとっては、真の自分を知ることが、そして、いかに生きるべきかを探求することが、人生で一番大切なことだったのです。彼の生き方そのものが哲学だったわけですね。
私は、最初の神秘体験がソクラテスに関することだったことから、ソクラテスについて随分調べたことがありましたが、「自凝」という文字を見た瞬間に、再びソクラテスのことを思い出しました。
そして、、「あ、これは同じことだ!」と思ったのでした。
日本という国土は、おのころ島から始まったとされていますが、おのころ島は、神々によって、出来上がるきっかけを作られて(沼矛でかき回されて)自然に固まって出来上がったのですが、人間は、自然には固まりませんね。
人間が、出来上がるには何が必要なのか?人間になるのには、何が必要なのか…?
それが、ソクラテスが問う「我を知る」ということではないのか。知らないということを自覚して、知る努力を続けること。それで、初めて「人間になる」のだと気付きました。
理屈は同じですが、
日本という国土は、沼矛によって→人間は、相手や、自然や対象物、体験や経験によって…
日本という国土は、沼矛によって→人間は、相手や、自然や対象物、体験や経験によって…
かき回されて→気づかされて
自然に→自ずと
固まって→確信が深まって
出来た→自分を知ることが出来る
人間は、そのためにこそ、物質地球を選んで生まれてくるのですね。
誰かに、何かに、感情や理性を動かされることで、
大切な何かに気づき、
誰かに、何かに、感情や理性を動かされることで、
大切な何かに気づき、
それに基づいて、肉体をもって行為することで、
自然に、だんだんと、自分を知ることが出来る…
それは、人間が「意識」そのものだからですね。
気づくことが出来る「意識」そのものだから。
「人間の意識」と「創造主の意識」とは、「全体」と「部分」の関係にあります。
気づくことが出来る「意識」そのものだから。
「人間の意識」と「創造主の意識」とは、「全体」と「部分」の関係にあります。
人間の意識は創造主の意識の一部であり、人間の意識の中には、創造主の意識の全てがダウンロードされています。
だから、人間が最終的にすべてを知るということは、気づきを深める(思い出す)ことで、
最終的には創造主の持つ意識状態にまで至れるということなのです。
そして、それを知る過程が、無数の「小悟」であり、最終形が宇宙合一となる「大悟」なのですね。
だから、人間が最終的にすべてを知るということは、気づきを深める(思い出す)ことで、
最終的には創造主の持つ意識状態にまで至れるということなのです。
そして、それを知る過程が、無数の「小悟」であり、最終形が宇宙合一となる「大悟」なのですね。
そういう意味で、ソクラテスは、意識の大切さを説いたのです。
無知を自覚し、己を知ることに努めよ…よりよく生きよ…
改めて、そう感じました。
イシガケ蝶と、海のそばの岩場にいたカニさん
さて、沼島から帰ってきたら、トネリコ仲間からご質問のメールがきていました。とてもタイムリーな
ご質問でしたので、その質疑応答のメールを載せてみようと思います。
Q:
しょうこさん
A:
ブログを楽しく拝見して、生きるヒントをいただいています。
先日のブログにあった「真実は自分がすべて知っています」というメッセージ。
「真実」とは何をさしている感じでしょうか。
本来の自分?世界の成り立ち?とイメージをつかめなくて、
せっかくのメッセージを落とし込めないでおります。
ぜひ教えてくださいませ
A:
◯◯さん、ご質問をありがとう!
早速ですが…
「真実」とは「全て」のことです。
全ての真実…ですから、自分のことも宇宙のことも、地球の成り立ちも含め て全て!ということですね。
ただ、肉体人間は有限な存在として、 現生は今回一度限りの人生として限界づけられていますので、
必要 でない事は思い出さないようになっています。必要があればこそ思い出せるということですが、
そのこともまた自分が選択して生きています。
必要
なので、必要がなくて思い出さない部分があるとすれば、それは全てでは ないという考え方も出来ますし、そういう意味では、それぞれの人にとって「真実=全て」の範囲が違う、と捉 えていいのかも知れません。
人間は多層構造的な意識体であり、意識の次元の層の上限を超える度に、さらに上位の次元層の情報を知りうるようになっています。
それは意識の進化とともに、ある意味ギフトのようにもたらされるものでもあり、自分の魂に素直に生きていれば、段階を経るごとに、必要なことの全てのことは思い出せるようになっています。
なので、少しも慌てることなく、宇宙の叡智にすべてをお任せしながら、自らは、折々の気づきを大切に、その気づきに丁寧に対応する素直な日々を重ねていれば、必ずや必要なギフトが与えられるようになっています。
思いがけず、突然のギフトによって、それまで必要だとは思っていなかったことまで思い出せたとしたら、 その情報は、より広く多くの方に、何らかの形でシェアしなくてはならな いということでしょう。
それだけの責任を背負うということでもありますね。
思いがけず、突然のギフトによって、それまで必要だとは思っていなかったことまで思い出せたとしたら、
それだけの責任を背負うということでもありますね。
これで、答えになっていますでしょうか?
ではでは、また〜!
ではでは、また〜!