盛岡市にある一推しの隠れ家「愛宕下カフェ」ではもっか桜が満開状態、市内の至る所で咲き競っているそうです。関西では早くも初夏の様相を見せるこの時期になるといつも、盛岡の桜はまだかなあと気を揉むのですが、愛宕下カフェの看板ワンコが主役の、まるで絵葉書のように美しい写真が届きました🎶
さて、東北の春が終われば、いよいよ、あらゆるものが始動します
神戸の震災が終わってしばらくした頃、「神の戸(ドア)が開いたから、いよいよ始まるよ」と教えてもらって早くも30年です。地球や人類の歩みのなんと遅いことよ、といつも思ってきましたが、物質を中心にしている限り、そのスピードが鈍重なのも仕方ないところ。
ただ、最近、肉主霊従から霊主肉従に変化している人たちがどんどん増えてきたせいか、大変容近しの感があります。
少なくとも、そろそろ重い腰が上がりはじめているのは誰もが感じているところ、政治を見ても経済を見てもそうですが、人間というのは行き着くところまで行かないと反転修正できない性(さが)のようですね
というわけで、大変化は仕方がないところですが、いろんなものが変わりゆく世の中にあって、変わらないでいて欲しいもの、それが日本の移ろいゆく四季の景色と、それを愛でて歌に詠む優雅な「やまとごころ」。
というわけで、以下、先日の「おしゃべりカフェ」の「やまとごころ」とはなんぞや?の結論につなげます。
江戸時代後期の国学者たちは当時の中華文明(からごころ)真っ盛りの中にあって、日本独自の精神を探求模索していました。その中で誕生した日本を代表する国学者、賀茂真淵と本居宣長の師弟が万葉集や古事記を研究する中で、日本人の精神の原点を導き出し私たちが立ち返るべき指標として示してくれています。
彼らによれば、日本精神の原点とは、「技巧に走らず、直き心でスックと立つ、ますらおぶり」(賀茂真淵)と、「何事も、ありのまま、素直な心で受けとめ優雅に対応できる、たおやめぶり」(本居宣長)にあると・・。本居さんは「ますらおぶり」より「たおやめぶり」としていますが、現代の私たちは「ますらおぶり」をあまりに忘れ果てているので、カフェでは私たちが継ぎたい日本人の精神・魂とは、その両軸にあると結論づけました。
つまり、高く直き心で、自分が信じる道を我いかんという勇気や気概もあるけれど、全てをありのまま、素直な感情で受けとめ、さらには中庸的に受け入れ昇華させて、明るい未来に繋げるのが「やまとごころ」であると
その「やまとごころ」は、「からごころ」と異なり、「敵を許す、排除しない、同化する」のが特徴ですが、そのように全てをたおやか、優雅に受け入れることができるのは、日本人が「もののあはれ」(本居宣長)を知る民族ゆえと、宣長さんは導き出しました。
「もののあはれ」とは、喜びも悲しみも心の底から湧き出る感情のすべてのこと、どうにもならない、自分ではどうしようもない出来事を前にして無力感しかない状況の中なのだけれど、打ちひしがれるだけでなく、大いなるもの、人智を超えた存在に任せて、それを積極的に受け入れ、きっと良くなると思えること・・それが本当の強さであり、勇気や潔さ(男性性)であり、柳のようにしなやかな(女性性)でもあるということですね。
繰り返しになりますが、結論
日本人らしさとは、心根を正直に謳った歌集・万葉集に見ることができるように、
高き直き心で生きることができる強い人間であると同時に、「もののあはれ」を知るがゆえに、敵味方なく共感し優しく接することができ、どんな悲しい出来事さえも嘆くだけで終わらせることなく、見えざるものの力を信じ、明るい未来を信じて生きようとする、力強くも、優美でしなやかな精神を持つ「やまとごころ」にこそある・・ということ
そういう人に私はなりたい・・
と、これまた岩手の偉人、宮沢賢治の名言で締めることにしましょう