For truth 「真理をたずねて」

ルーエの伝言

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「ありのまま」&「受け入れる」の意味。

昨日は春分の日、季節が変わる日でした。昼の長さと夜の長さがほぼ同じ、今日からは昼の時間が少しづつ長くなっていくらしいですが、昨日のサロン周辺は穏やかで気持ちの良い一日でした。今日はさらに本格的な春に向かって急ピッチ、どなた様も仕切り直して、GO!ですよ

さて、先日の「おしゃべりカフェ」で、トネリコ仲間から質問があった「ありのまま」の意味、「受け入れる」ってどういうこと?に対する私なりの回答を再度ここに書いておこうと思います。

仏教では「ありのままで仏性」と教えます。私たちは誰もがもともと仏性(仏としての本質)を持ち、そのままで仏である、という教えですが、それでは、私たちが今現在自分のありのままの状態を仏であると思えるか?ですよね。中には、そうだと思える方もおられるかも知れませんが、大方の人は本当に?が正直なところだろうと思います。
でも、お釈迦様は「ありのままで仏性」、それは真に悟ればわかると言っておられる。
つまり、私たちは「ありのまま」の状態に幾重にも偽の自分という甲羅を纏ってしまっている状態なのだ、悟ればそれがわかるということです。その最も大きな甲羅が仏教でいう「煩悩」。苦しみ悩みに通じる煩悩という甲羅を少しづつ脱ぎ捨てていければ、いつの日かありのままの自分に戻れる・・

これをスピリチュアルな観点から「意識」ということでご説明しましょう。
私はいつもこの現象世界には「大いなる意識」という「親意識=神」しか存在せず、それが個々の人間の中に「小さな意識=子神」として入っている、それは親子の関係で親子は量や質が違うだけで、本質は同じものとお伝えしていますね。つまり、大いなる意識の個的ヴァージョンが人間本来の姿。そのまんまで、人間は神様の一部なのだけど、そう思えないから苦しんでいるし悩んでいる。小さな意識である個々人は、そのままでは自分が神意識の一部であるとはとても思えないというところなのでしょう。。
つまりは、同じことを言っているのですね。

実在しているのは、神としての本質だけなのに、目にみえる世界の自分だけを自分だと認識しているから起きてしまう錯誤、元は仏や神でさえある自分なのにね。
それならば、神や仏としての自分を覆って偽らせている甲羅やベールを脱ぎ捨てればいい、本当の「ありのまま」が現出するようにすればいいということですが、では、どうやって?ということですね。

ところで、私たちは「ありのまま」という言葉を普通に使っていますが、それはどういう意味なのか?辞書には、自然な姿で、事実通りに、自分を飾ることなく・とありますね。つまり、誰かによく見せたいとか、どう思われるだろうとか気にしないで、自然に振る舞うこと、嘘偽りなく行為すること。それがありのまま。

では、私たちは日常的にそれができているでしょうか?
自分はありのままに生きているか?そう自問自答すれば、そうできているような出来ていないような、案外よくわからないという人もいるかも知れませんね。そのくらい、自然に自分らしく振る舞うということ自体がわからなくなっている人も多いだろうと思います。

ならば、どうするか?
今日から、これがありのままの自分、という自分を意識的に実践してみてください。自分自身に集中して、ありのままであろうとしてみてください。事実の通りに人の思惑を気にせずに、あっけらかんと子供のように・・
そして、それがどういう結果につながっているかよくみてください。
神や仏の本質は「愛と調和」そのものですから、あなたが行為したそのありのままが「愛と調和」に溢れた結果をもたらすようなら、そのままですでにあなたは「真のありのまま」、仏様や神様に等しいレベル。
もしありのままに振る舞ったその結果が、愛と調和とズレた結果を生み出すようなら、まだあなたは本来のありのままではないということになりますね。
私たちは内側で、「愛と調和」の本当の意味を知っています。それが私たちの本質なので誤魔化せないのです。それが「大いなる意識」の本質で、私たちはそこから生まれたから。
だからこそ、今、自分が思う「ありのまま」をそのまま実践していきましょう。今現在のありのままを実践していれば、カルマの法則が的確に作用して、自然と素早く愛と調和した自分へと誘なわれていきます。

「カルマの法則」とは自分が犯した罪を誰かに罰せられるということではありません。自分で犯した罪を自分で贖って本来の調和した状態に戻すという自浄作用なのです。
もし不調和な状態が起きているなら、それは自分で原因を作ったのだから、その結果を自分が受け入れて修正するということです。
カルマ落としに精を出しつつ、自分が最高最善に愛と調和した人間になろうとするのは、人間の絶対的な目標、本質的な姿なのです。


チューリップもここまで咲き誇れば、まるで芍薬、牡丹かな・

では「受け入れる」ということの意味はどうでしょう?
ある出来事や問題を前にして、それが肯定、納得できることであれば、誰しも素直に受け入れることが出来るはずですが、もし判断に迷ったり否定的に感じるような時にどうするか?
そんな時は、その問題を個々意識で判断しないで、まずは批判や非難もせずに「受け取り」、その結果は宇宙=神の導きに委ねるということです。判断に迷うようなことを無条件に「受け入れる」ことではありません。「批判せずに受け取り、判断は保留して結果は宇宙に委ねる」ということです。

つまり、そうかも知れない、そうでないかも知れないと思う時は、すぐに個人意識で捌かず否定もせず、まずは受け取り、その判断や結果は大いなる意識が導いてくれる答えに委ねるということです。その答えに素直に従うことが、いわゆるカルマ落とし。
でも、それは正しい!それは違う!と確信を持てることに関しては
、絶対に自分の判断や意見を大事にしなくてはなりません。宇宙意識にお任せするということは、正しくないと思っていることでも何でも素直にハイハイと受け入れることではありませんし、そうしてはいけません。

自分の気持ちに正直に、違う時は違う、そうだと思う時はそうだ、よくわからない時はそうかも知れないしそうでないかも知れない・・とキチンと分析して、判断に困るようなことは引き出しにでも入れて宇宙意識に委ねるということです。そうすれば、自分の判断が間違えている時はカルマの法則が働いて正しい方向へ導いてもらえます。
日本人は特に、思いやりだと慮りだのと称して、周りとの調和のため、自分よりも他人を優先するために自分の意見表明を後回しにしがちですが、「ありのまま」の姿とは、「飾ることなく正直に」、「事実通りに」、「自然な状態で」・・ということです。
ありのままの自分になるためには、まずは自分の気持ちを大切に、物事を人任せではなく自分らしく判断・行動し、わからないことは宇宙にお任せすること、その上でカルマの法則に従って、その結果を素直に受け入れ修正しながら、さらなる「ありのまま」を目指すこと・・に尽きるのです。

とまあ、書き言葉にするのはなかなか難しいですね話している時は宇宙からのサポートが入るので臨機応変に言葉を紡げますが、それを書き言葉で表現するのはとても難しいし、苦手ですつまりは文才が無いってことかな