For truth 「真理をたずねて」

ルーエの夙川だより

’自分のことを自分で知る’・・「自知」がモットー。
自分らしく、ありのままに、
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「お話会」よりNo.8

ひとまず2024年のお話はこのくらいにして、もう一度前回のおさらい「魂について」をお話ししておきますね。

先ほどから何度も、人間はこの地球上ではこの肉体に魂を入れてもらって活動しているとお話ししました。この小さな肉体の中に神様にも等しい高次エネルギーを乗せてもらっているのですね。人間は肉体と魂でできているということになりますが、それをもう少し別の言葉で正確に表現するなら、人間は霊体と幽体と肉体とで成り立っています。霊体というのが先ほどからお話ししている神様の分霊である次元の高いエネルギーの部分、幽体というのは心や想念が生み出した地球独特のエネルギー、肉体は文字通りこの身体のことですね。
この三つの異なる次元のエネルギーを管轄運営しているのが「主魂=主になる魂」、「本霊」とも言います。あるいは、「真の自己」と表現してもいいと思います。

この「真の自己」を「ハイヤーセルフ」と表現しても間違いではありませんが、ただ、「真の自己」は覚醒すればするほど神様レベルに近づきますから、中には単にハイヤーセルフという以上の存在になる人もいます。
そして、この主魂=本霊は、おそらく脳の松果体の部分にあるのではないかと私は思っています。

デカルトという哲学者はある時覚醒するわけですが、その時に魂と肉体は別々のものだと気づくのですね。それによって生み出された彼の哲学は心身二元論で、精神と身体とは完全に別々で交流がないという人間観をとります。それではなぜ、人間が精神と肉体を合体させることができるかというと、彼は精神と肉体との相互作用をする場所が松果体だと思ったわけです。彼は医学に興味を持ち解剖もしていましたから、脳を開いた時に松ぼっくりのような形をして脳の真ん中にある松果体を見て、身体の左と右、身体と精神など二つに分かれる要素を統合する場所だと思ったのですね。
まあ、科学的に言えば、それは間違いだというのは簡単なのでしょうが、私には彼が松果体に着目した理由がよくわかります。目覚めると、どんどん脳の中央部分が膨らむイメージ、ここには何かがあるぞという感じがしてくるものなんです。実際に、目覚めが進むと、最初はグリーンピースくらいの大きさの松果体が胡桃大くらいにまでなる人もいるのですよ。頭が膨張して変形してしまう人もいるそうです。

松果体というのは、医学的に見ると、人間の目の網膜の細胞ととてもよく似ているそうですね。その理由を、昔は額にあった第三の目が奥に引っ込んだからという研究者もいます。
第三の目はかつては見えないものを見る器官としてあったのですが、それが進化の過程で無くなった(奥に引っ込んだ?)せいで、人間は現実的に目で見えるものしか見えなくなったのかも知れません。
この松果体が網膜と同じ細胞からできているという説には大いに信ぴょう性があって、実は私は目覚めた後、それまで0.1しかなかった視力が0.8まで回復しました。今も老眼鏡も使わずに、一応日常生活が送れる程度に回復していますから、目覚めによって活性化した松果体が視力に何らかの影響を与えているのではないかと考えています。

私たちは今回の生に至るまで何回も転生して来ていますが、その時々に得た宇宙の叡智は松果体にしっかりと蓄積されています。その宇宙の叡智を思い出すのが目覚め、悟り私たちに等しくもたらされた神の叡智は、宇宙の法則、宇宙の摂理として松果体を通して現実界に顕現するのです。神の叡智を授けられた分霊として、分霊の分霊たる所以が松果体にあるのではないかと思うのです。

松果体はメラトニンやセロトニンというホルモンを生み出す器官で、生体リズムを調整する役割を持っています。私が重度の睡眠障害なのは、松果体が常に活性化しているせいで、肉体時計が狂っているせいだろうと思いますが、松果体の活性化は細胞の若返りにも有効なので、後でエネルギーワークしたいと思います。

さて、いよいよ最後ですが、私たちは大悟するまでは何度でも転生できるとは言っても、今回の人生は今回限りです。死ねば、生きている時よりももっと大きな自分の魂に収斂して、再び出てくる時はその大きな魂の別の側面が現世の魂として出てきますから、そういう意味では同じ人生は二度とありません。だからこそ、この人生を思いっきり生ききりましょう。

こんな地震があって亡くなった人が可哀想だと落ち込んでいる人を見かけますが、実はそんなことをしても何の慰めにもなりませんし、こんな時期はボウフラのように陰謀論が吹き出したりもしますが、そんな情報の真偽を調べていても時間の無駄と言うものです。
確かにそんなニュースを聞けば悲しい辛いし気持ちが沈みますが、今私たちがやらねばならないことは、想像力を持って、そういう事故や事件の当事者になるのは自分でもおかしくなかったのだとしっかり受け止めて、もし、自分が当事者だったとして、その時に思い残しはないか、し残しはないか、仕方がなかったと腹をくくれるか、そういう観点から自分を見つめ直すことです。

こんな時だからこそ、自分に集中して、今できることに最善を尽くしましょう!
その積み重ねの日々こそが、大悟への道だと信じましょう!
こうした出来事が教えてくれるのは、それしかないのですから。

(2024年1月18日の「お話会」よりは、以上で終わり)