今朝、産経新聞を読んでいたら、経済アナリストの森永卓郎さんが「話の肖像画」という欄でインタビューに答える形で、日本経済の未来について話しておられました。死期を悟った方の言葉は実にクリアですね。以下にそのまま抜粋してみます。
「私は資本主義は終わると思っています。
資本主義が終わるとグローバリズムというものがなくなって、世界中に無数の小さな経済循環のクラスター(集合体)ができます。世界中が小さな村の集まりみたいになる。大半のものはそこで地産地消するようになるでしょう。海外との輸出などは減っていくでしょうね。みんなが自分で農作物を作って、地元の大工さんが作った家に住む」・・・
彼によると、これはマハトマ・ガンジーが「隣人の原理」として提唱した経済社会の姿なのだそうですね。(知らなかった)
が、私はこの部分を読みながら、去年亡くなった彗星探検家にして臨死体験者、木内鶴彦さんの言葉を思い出しました。ちょっとうろ覚えですが、木内さんも未来型の村の案として、100〜400人規模の循環型の社会を提案しておられたように思います。(その他に、地方都市の自然豊かなところ、商業施設の周りに住居を作るという案もあったかな)
私は以前に木内さんのその話を聞いたとき、自分が神秘体験後に気づいたこととよく似たことを言われるのでびっくりしたのですが、森永さんも死を目前にして同じようなことを言っておられる・・もしかしたら、(魂の成長を目指す)集団としての理想の在り方は、人間の脳の深層部に刻まれているのではないかと思ったのでした。
こういう集団の在り方って、実は霊界の構造とちょっと似ています。霊界は魂の成長を目指す世界ですが、霊界を進んでいくと、少人数から大きな人数のグループ制で魂の切磋琢磨を行う世界に入ります。それぞれの魂グループはそれぞれが特徴や個性を持っていて、だからこそ成長できるようになっています。まるで、小さな循環型社会のような完結型。
実はこれは視点を変えれば、トランプ大統領が目指していることにも通じるように思います。トランプさんはこれまでのグローバリズムが行き着いた世界のあり方を完全否定して新しい国の形を作ろうとしているので、やること&言うこと、真逆になりますし、過激と思われるのは当然なのでしょうが、それほどまでに世界は極端になってしまっているんだということでもある。現実的にも魂の成長のためにも、「地球全体を一つの共同体と目指し、世界の一体化を進めよう」とするグローバリズムは「大雑把」すぎるのです。制限なく、区別なく特徴なく・・と言う方向に行くからですが。世界は違う人種、違う文化、違う思想で満ちているのに、拙速にたったひとつにしようなんて、どだい無理というもの。
確かに、私たちが最終的に目指す地球は「一つの共同体」ですし、世界はひとつです。
でもまだ、そこまでの道は遠すぎるが故に、それを悪用して人を支配しようとする人たちもいるという現実を見つめ直し、今一度原点に帰りましょう、という意味でも、小さな循環型社会という理想型はありうるのではと思います。
まあ、内向きになり過ぎてもいけませんが、本当のところ、日本には日本独自の文化を作り上げていた、世界に冠たる時代があります。約400年間も続いた平安時代に、約260年間続いた江戸時代。戦争のない長い歴史を紡ぎながら、貴族文化が栄えた平安時代、庶民文化が花開いた江戸時代・・島国という特徴も幸いしたのでしょうが、やはり日本人という国民性ゆえと、私は思います。
「個」を大事にする「集団」、自分が属する「集団」を誇りに思い大事にすることができる「個」、実は「個」と「集団」はイコールなのです。
トランプさんは、個(=アメリカ人)を大事にする集団(=アメリカ)、集団(=アメリカ)を大事にすることができる個(=アメリカ人)になろうと提唱しているのです。
さあ、その「個」と「集団」を私たち日本人と日本に置き換えたらどうでしょう。
日本人を大事にする日本、日本を大事にする日本人・・それって本当は当たり前のことですよね?
なのに、その言葉にさえ抵抗を示す人も少なからずいます・・そういうふうに大きな齟齬を生み出した世界や日本にあって、どうやってそういう個と集団を作っていくのか?
それがこれからの問題でしょうが、森永さんは力強く、「資本主義が終わってそうなる」と言っておられるわけです。最後の遺言として。
個の犠牲の上に立つ集団も、集団を大切に思えない個も、魂の成長から言えば、間違えた在り方でなのです。グローバリズムという耳触りの良い主張が、実は、個を犠牲にした、誇ることのできない集団を作り上げてしまった、今はその際極にあるのだという認識は持った方がいいかも知れません。
などと、森永さんの記事を読みながら思いました。
それにしても森永さん、最後まで目一杯生き切りあっぱれな人生でしたね。 合掌